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# 固有名の古典的理論#2-2 記述の束説による問題解決 ## 固有名の記述説の問題の解決 ラッセルの場合、固有名に結びついているのは個人間において異なる確定記述であり、そして、これが対象を同定する同定記述である。しかし、この確定記述は厳密で曖昧性を認めず、また、固有名に結びついている確定記述は個人間において相対的であるため、固有名の意味も個人間において相対化するという問題があった。問題は固有名に結びついている確定記述が厳密すぎるという点である。そのため、これに対して、サールは、固有名が対象を同定するプロセスに曖昧性を取り入れる。これによって、ラッセル説の問題(反論1、反論2)を解決できる。また、固有名の必要性といった問題(反論3)にも回答を与えることができる。ラッセル説 | (1)固有名 →(2)確定記述(同定記述) →(3)唯一の対象を表示 |
サール説 | (1)固有名 →(2-1)記述の束 →(2-2)束の中で少なくとも一つの同定記述を構成 →(3)唯一の対象を表示 |
## 相対性という問題(反論1の応答) サールによると、固有名「ソクラテス」に結び付けられた記述の束で対象ソクラテスの表示に成功している人は、彼らの記述の束が曖昧で不特定であったとしてもその中にソクラテスの同定記述を最低でも一つもっている。固有名を理解している人における同定記述を構成する記述はある程度共通しており、従ってこれらが共通の対象を成功していると言える。これによって、対象の相対性を乗り越えられるとした。具体的に見てみる:
ラッセル説 | (1)固有名【公共的】 →(2)確定記述【相対的】 →(3)唯一の対象を表示【相対的】 |
サール説 | (1)固有名【公共的】 →(2-1)記述の束【相対的】 →(2-2)束の中で少なくとも一つの同定記述を構成【相対的】 →(3)唯一の対象を表示【相対的】 |
赤:Aさんの束、青:Bさんの束、緑:Cさんの束彼らの記述の束は相対的で表示する対象も相対的である。しかし、彼らの記述の束は少しずつ共通項を持つ。そのため、指示する対象もまったく相対的ではなく近似の対象である:
図14
図11これが確定記述による同定記述の場合、ラッセルの記述説の反論でみたように相対性に陥る。しかし、非確定記述の外延は”常識”に支えられている。例えば、「xは山である」という命題関数において、AさんとBさんではこれの外延は相対的だが大部分が常識に包括され共通しているというある種の共通の了解をもつ。サールの記述の束による曖昧性は、このような常識を取り込むことであり、対象の共通性を常識に委ねる理論と言えるのではないか。従って、対象に帰属させる非確定記述が増えるたびに個人間において相対的な記述の束が表示する対象は一つの対象へと収束してゆく(恐らく決して一致はしないが)。 ## 束が完全に相対的だったら?(全体論的言語観へ) では、個人間の記述の束においてまったく共通する記述がないとしたらどうだろうか。これらの束から構成される同定記述もこれが表示する対象も完全に相対的になるだろうか。例えば、Aさんの記述の束「イ∨ロ∨ホ」とDさんの束「ハ∨ニ」はどちらもソクラテスという対象を唯一のものとして表示する。しかし、二人がこの固有名に対応させる記述の束は完全に相対的であるため、これらが表示する対象も相対的である。
図12しかし、この想定において記述同士が独立しているということを前提としている。それゆえに、記述の束は相対的になり、それが示す対象も相対的になる。しかし、これは、クワインが「二つのドグマ」で批判した還元主義のドグマであり、実際は独立して存在する記述などないのである。全ての記述は緩やかに連関しており全ての記述の束は繋がっていて一つの全体に包括される。そのため、対象が完全に相対的になることはありえない。 サール自身は、このような全体論的な言語観ではなく古典的なドグマを前提にしているように思われる(彼は記述を"数える"ことからもそう見える)。しかし、その数は「曖昧で不特定な数」(vague and unspecified number)であり、実際は数えることなどできないのである。サールの記述の束説は、固有名の意味に曖昧性や不特定性という日常言語が持つ複雑性を取り入れる理論である。つまり、これは、ラッセルの理想言語への飛翔を抑えて、固有名を日常言語へ回帰させる理論であると考えられる。
## 対応する確定記述の取り出しが不可能という問題(反論2の応答) 記述の束説は、ラッセルのように固有名には厳密な確定記述が対応するという考えではない。固有名には、使用者本人にとっても曖昧で不特定な記述の選言が対応しているに過ぎない。そのため、サールの説は、固有名には確定記述が対応しなければならないという前提にコミットしていない(ライカン、p62)。また、「固有名に対応する記述の束を取り出すことができない」とこの反論を言い換えたとした場合、この対応している束は、状況や個人に応じて変化する曖昧なものであるため、これを取り出すことは不可能であると考えても不思議ではないだろう。
## 固有名の必要性という問題(反論3の応答) ラッセルのように固有名は記述の省略(もしくは論理的に同値)とすると固有名は記述に還元されてこれの必要性がなくなる。これに対して、サールは、記述を固有名を明確に区別する。彼は固有名は「記述を引っ掛けるための釘(peg)」とする。つまり、固有名はそれが指示する対象に関する確定記述も非確定記述もまとめておくものであり、そして、そのまとまりによって対象を同定することができる。固有名と確定記述との違いは、非確定記述をまとめることによって同定記述を構成することもできるという点である。この非確定記述を束ねることによって同定記述を構成するという点を固有名に認める、つまり、固有名に曖昧性や「ゆるさ」を認める点が確定記述とは一戦を画す。「確定記述は、対象の明示的な記述を与えることによって指示[表示]を行うのである。それに対して、固有名は、そのような記述を与えることなしに対象を指示[表示]するのである」(p305)。
## そして、クリプキへ 固有名の記述説とこれの修正版である記述の束説という古典的な理論は、様々な反論を受けるがその際に修正しつつ指示論における一つのパラダイムを形成していた。しかし、クリプキから、この古典的理論説に対して重要な批判が行われる。さらに彼の「固定指示子」という新しい刺激的な理論の登場によって固有名の理論におけるパラダイム転換が起こった。だが、クリプキ自身が記述説(そして、記述の束説)のことを「実に良く出来た理論」(NN,p73)と言うように、現在でも依然として重要性を失っていない理論である。 ### メモ - **同定記述とはなにか(サールとウィトゲンシュタイン)** 対象に関する記述をもっているのは「私」である。この記述を束ねるのも「私」である。そして、この記述から同定記述を構成するのも「私」である。そのため同定記述も個人ごと相対的である。例えば、ある人は「ソクラテス」という固有名に「ギリシャの哲学者」という記述だけ結びつけているとする。また、彼がプラトンもアリストテレスもほかのギリシャ哲学者を知らなかった場合、この記述だけでソクラテスを同定する。そのためこの記述は彼にとって同定記述である。同定記述まで私的言語に属するとすると前期ウィトゲンシュタインのような独我論に陥る。
この私的な同定記述は公共的な同定記述であると認められない。なぜなら、公共的には「ギリシャの哲学者」だけではソクラテスという対象を唯一のものして表示せず同定記述と認められないからである。しかし、ウィトゲンシュタインが後期の哲学において要素命題の相互独立性を放棄して家族的類似性に至ったのと同様に、サールもラッセルの言語原子論から記述の束説に至る。同定記述は公共的なものであり、ある固有名に結びついている記述の束から形成される同定記述が唯一の対象を表示しているかどうかは"常識"によってチェックされる。 - **同定記述の判断** 哲学に詳しくないある友人と話していて「ソクラテスって哲学者だよね」と言った。私は「そうそう、よく知っているね」と言った。私は彼女がソクラテスを”理解している”と思ったのだ。しかし、仮りに彼女がある程度教養のある人と思われたならば、「他になにか知っている?」と聞き返しただろう。ここから分かるのは、対象の「同定記述」はそれを判断する人間によって変化するという点である(私的判断)。つまり、友人にとって、ソクラテスは「xは哲学者である」という述語で唯一の対象を同定している。もちろん、この記述では一般的、公共的には唯一の対象を同定することはできない、つまり、同定記述ではない(客観的判断)。私は、彼女の哲学に対する理解度を了解しており、それを前提にすることで「xは哲学者」は私にとっても同定記述になりうる(間主観的判断)。このように、固有名に結びついている記述が同定記述であるかの判断は様々な方向からなされる。私的判断、公共的判断、間主観的判断。「名指しと必然性」のクリプキの反論に通じる? --- ## 参考文献
First posted 2011/04/04
Last updated 2011/04/25
Last updated 2011/04/25