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# カント「純粋理性批判」#2 (超越論的感性論) 前回見たようにカントは人間理性のうちにアプリオリな認識判断を認め、それが学問的な知識を可能にするとした。また、認識は受動的認識能力である`感性(Sinnlichkeit)`と、その受け取った直観的データを組織し「概念のもとへもたらす能動的認識能力である`悟性(Verstand)`の共同作業からなる。そのため、認識をなす二つの関係それぞれにおいてアプリオリな原理、形式を探求する。それは、感性における探求は超越論的感性論と呼ばれ、悟性においては超越論的分析論と呼ばれる。 ## 超越論的感性論(Transzendentale Ästhetik) カントによれば、感性においてアプリオリに備わっている形式は時間と空間といったアプリオリな直観である。そして、また我々は主観性におけるその`アプリオリな表象(Vorstellung)`である空間と時間を媒介して世界を眺めるため、`現象(Erscheinung)`を受動的に直観し、決して「物自体」には到達できない。これは、`超越論的観念論(transzendentale Idealität)`と呼ばれ超越論的観念性と経験的実在性を内包している。 #### (感性論の流れ) - アプリオリな認識判断(感性と悟性からなり、それぞれのうちのアプリオリな形式を探求。悟性については、分析論へ) - 認識能力の受動性である感性が現象を直観する。ここに時間と空間がアプリオリな形式としてある。もしくは時間と空間という純粋直観を通して現象を受動的に直観する。 - 現象(アプリオリな表象である時間と空間を通して現前する世界) - 物自体(人間の認識は、これ自体には到達できない。しかし、カント哲学を独我論に陥らせないために、ものごとの背景に存在すると想定される。この解釈をめぐって多くの議論が展開される。) ## 時間と空間 カントは感覚のうちに潜むアプリオリな形式をあぶり出すために、内的・外的に関わらずあらゆるアポステリオリな要素を除外し、それでも残るアプリオリなものを探した。そして、見つかったのが、捨て去った感覚的な要素の受け皿であり枠組みである`時間と空間`という純粋で非経験的な表象である。「時間」は我々の心的な内官の形式で、「空間」は外官のアプリオリな形式である。時間と空間がアプリオリな形式として我々の感性に備わっているという直接的な論拠に形而上学的究明と、間接的な証明である超越論的究明がある。 形而上学的究明:時空はアプリオリな表象であり、純粋直観である。 ## 形而上学的究明(Metaphysische Erörterung) ### ・アプリオリな表象、純粋直観 空間と時間というアプリオリな形式は感覚に属する。なぜなら、我々は、どのような経験であっても、内的な経験であったら時間を、外的な経験であったら空間といったアプリオリな枠組みを前提としなければ、いかなる知覚も組織できない(時間と空間がなかったらリンゴを想像することはできないし、リンゴに関して思惟することもできない)。このように時間と空間は、我々の超越論的主観性によるアプリオリな「表象」であり超越論的には観念論的である(「空間と時間はともに私たちのうちにの見いだされる」(A373)。つまり、時間と空間は、悟性の能動性によって経験から引き出された後天的な概念ではなく、知覚する側が内にもち外的な経験を可能にする先天的な表象である(時空はそのものが成立するための概念ではなく、人間の思惟や認識が成立するための下地・条件である)。 ### ・概念ではなく純粋直観 このようにカントの哲学では空間と時間は「私たちの内」にあるものとして解釈される。つまりそれは空間と時空は概念ではない。なぜなら概念は個物を含まないが、空間は個物を含むためである(猫という概念のうちにはミケと名づけられた猫を含まないが、空間はミケも含む)。そのため、それらはアプリオリな「直観形式」であり、また「純粋直観」である。 ## 超越論的究明(transzendentale Erörterung) この究明においてカントは、一般に認められている数学や力学(主にニュートン力学)が時間と空間の先天性の想定からのみ理解されることを示すことによって、時間と空間のアプリオリ性の間接的な証明を行っている。カントは超越論的感性論の問題を、数学はいかにして可能であるか、という問いに総括する。 1. 時間と空間は数学の地盤である(仮定:幾何学は空間を前提し、数学は時間表象を前提とする) - 数学は普遍的である(仮定:一般的な認識) - 普遍的なものは全てアプリオリな根拠を持つ(仮定?) - 数学はアプリオリな根拠をもつ(2、3) - したがって、数学の地盤である空間と時間はアプリオリな根拠を持つ(純粋直観としてアプリオリに与えられている)(1,4) - したがって、時間と空間がアプリオリな根拠ではないとすると、数学の地盤を否定し、すなわち数学の可能性そのものを否定しなければならない。 しかし、最後の結論は、一般に普遍学として認められている数学と矛盾するため、数学は時間と空間というアプリオリな根拠をもつと認められる、という間接的な証明を行う。また、数学を認めることによって、それこから導き出される力学などの内在的な形而上学の建設が可能となる。 ## 現象と物自体(Erscheinung & Ding an sich/phenomena & noumena) 先に見たように空間と時間が超越論的感性におけるアプリオリな原理であった。これはいわば超越論的感性論における積極的、肯定的な帰結であるが、また同時にその観念論的性質は消極的な帰結を孕む。それは、時間も空間も感性におけるアプリオリな表象、形式であるため、それらはともに表面的、経験的には`実在論的(経験的実在論empirische Realität)`であるが、人間理性の深層においては、つまり超越論的には`観念論的(超越論的観念論transzendentale Idealität)`である。換言するならば、我々が経験するのは、時間と空間というアプリオリな主観性を媒介して現前しているのは「現象」の世界である。しかし、現象の背後にある根源的な実在である`物自体/可想体`には決して到達できないという。この「物自体」という概念は、後に多くの論争を巻き起こす。## 参考文献 1. 有福孝岳ほか (編集)、『カント事典』、弘文堂、1997 1. ウォーバートン, N. (著)・船木亨(翻訳)、『入門 哲学の名著』、ナカニシヤ出版、2005 1. シュヴェーグラー (著)・谷川徹三ほか(翻訳)、『西洋哲学史〈上〉』、岩波文庫、1995 1. バウムガルトナー, H. M. (著)・有福孝岳(翻訳)、『カント入門講義―『純粋理性批判』読解のために』、法政大学出版局、1994 1. 藤田昇吾 (著)、『カント哲学の特性』、晃洋書房、2004
First posted 2008/10/22
Last updated 2010/11/02
Last updated 2010/11/02