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# カント「純粋理性批判」#3-1 超越論的分析論(演繹論) ## 超越論的分析論(Die transzendentale Analytik) 先に見た感性論にて、カントは感性のなかに時間と空間というアプリオリな形式を見つけるにいたった。しかし、人間の認識は受動的な感性という態度で終わるものではなく、受け入れた対象の純粋直観を能動的に処理を加える悟性というもうひとつの思考形式がある。つまり、直観によって与えられるものは、現象のカオス的多様であって、これを理解可能な表象である直観形式(\*1)にするには悟性によって加工される必要がある。従って、カントは次に「悟性のうちに本源的に」かつ「あらかじめ存在している」ものの探求に移行する(\*2)。この研究が超越論的分析論である(これは、超越論的論理学の第一門をなしている)。 (分析論の流れ) 1. 直観がもたらす純粋直観を悟性においてアプリオリに処理する - 純粋悟性概念(カテゴリー)によってそれらは統一され直観形式となる(認識の成立) - しかし、なぜ悟性のアプリオリ性(カテゴリー)が世界と一致するのか? - 超越論的演繹で解決を目論む - 超越論的統覚の発見 - 悟性の要素である統覚がカオス的所与を表象に加工する(カテゴリーの客観的妥当性の証明) --- ## 形而上学的演繹 ### 悟性概念(カテゴリー)と判断 感性においてアプリオリな形式は空間と時間であったように、悟性においてもアプリオリな形式が存在し、カントによるとそれは`純粋悟性概念(Kategorie)`(またはカテゴリー、範疇と呼ばれる)である。そして、純粋悟性概念はアリストテレスが行ったように経験から拾い集めたのではアプリオリなものとはいえない。つまり、アプリオリな概念を見出すにはアプリオリな原理から演繹(形而上学的演繹)されたものでなければならない。そして、その原理は「判断」である。判断は論理学において4つの種類にまとめられており、カントはそれぞれから対応するカテゴリーを導く(\*3)。 カテゴリーは実際に存在するものではなく(時空という感性の直観形式を所持しているわけではなく)、感性が受動的に得た直観に対して適用されそれを何か脈絡のある理解可能なものにする”型”である。そして、これは世界を経験し理解するための必要条件である。感性と悟性、直観とカテゴリーは二元論的な関係にあり、この二つが世界の認識を成立させる。 --- ## 超越論的演繹(transzendetale Deduktion) このように導き出されたカテゴリーであるが、この思惟の主観的制約が、(または悟性のうちにアプリオリに備わっているカテゴリーが)いかにして、客観的妥当性(Objektive Gültigkeit)をもちうるのか(我々はアプリオリな綜合判断(例えば自然科学的認識)の普遍妥当性を我々は確信し、またそれ実際に世界(現象)と一致する。それはなぜか?)ということが問題となる(これはヒュームの懐疑論に対し自然科学の妥当性を擁護するという、カント哲学の根幹に関わる部分である)。この問題に解決を与えるのが超越論的演繹である。 ## 総合(直観に加える悟性の能動性) 何か対象を認識するさい、直感がもたらすカオス的多様の「総合」(綜合、統合)を考えなければならない。ある対象を認識するには感性の純粋直観を空間において並列的に、時間において継続的にひとつの表象(形像)に総合される必要がある。この総合の働きは、感覚の機能ではなく悟性の機能である(\*4)。総合はカントによると三つの段階を経てなされる。 #### 直観における`覚知の総合(Synthesis der Apprehension)` 直観がもたらすカオス的多様を結合・統一し対象を形成する。この働きによって直感(判断?)の対象が成立する。 #### 想像力における`再現の総合(Synthesis der Reproduktion)` また、この「覚知の直観」を成立させるためには、「再現の総合」が必要である。それは、連続する知覚を心に保存し、それを再現する機能である。つまり、過去に得た情報を頭に留め、そして、この情報を必要なときに頭の中で再現する機能。また、この機能は、`想像力(Einbildungskraft)`(日本では伝統的に「構想力」と訳されるが理解しやすさから想像力を訳語に用いてる)によってもたらされる。この想像力は、『純粋理性批判』の第一版と第二版で大きく修正されておりカントを知る上で重要になるという(\*5)。 #### 概念における`再確認の総合(Synthesis der Rekognition)` そして、この「再現の総合」が成立するには「再確認の総合」が必要である。それは、想像力が再現した表象が以前に表象されたものと同一のものであるという確信をもたらし、それらをひとつの直感表象(直観形式)に統一する機能。 #### `超越論的統覚(transzendentale Apperzeption)` 加えて、この「再確認」は、「一つの意識」が前提となっている。つまり意識の同一性が総合の根底に要求される。これを「純粋意識」もしくは「超越論的統覚」という。これは言わば、デカルトにおける「コギト」であり(ドイツ語ではIch denke)、この超越論的統覚が直観に与えられたカオス的な現象を総合し、規定のあるなにか理解可能な表象にする(\*6)。超越論的統覚は悟性そのものであり、また、悟性の内にカテゴリーがアプリオリに内在しているのであった。従って、「いわゆる直観の対象はカテゴリーに従った構想力[想像力]の働きによって初めて成立する」(岩崎p136) ## 修正された感性と悟性の関係 つまり、これまでずっと感性と悟性は二元論的な平行関係を保ってきた。しかし、当初の感性と悟性の関係は大きく修正された。最初に見た関係は、感性が世界を受動的に直観し、それを悟性が思惟することによって認識を得るといったものであった。だが、いまや超越論的統覚(カテゴリー)が感性によって与えられたカオス的所与に規定を加え理解可能な対象にするという(覚知の総合)、悟性のアプリオリ性が感性のアプリオリ性に対し、総合という能動性を発揮していることが見て取れる。逆に言えば、感性はカオス的多様を与えるだけで、それを理解可能な表象に形作るのは悟性の働きであり、またそれを思惟するのもカテゴリーを前提とする悟性である。また、そうしたことから、我々が客観的対象とみなしている世界(現象、表象)、つまり認識の対象は、カテゴリーという我々の悟性のアプリオリ性が作り出したものであることがわかる。この我々は世界を認識するのではなく、カテゴリーが我々自身の認識を形成するという考えによって、コペルニクス的転回の意味もはっきりとする。 ## ヒュームの懐疑論に対するカントの回答 我々が関わりあうのは、物自体ではなくこの現象としての世界である。したがって、なぜ我々の認識と世界が一致するのかという当初の疑問に解決がもたらされる。つまり、数学や自然科学の客観的妥当性が理解できる。数学やニュートン力学といった学問が客観世界と適合するのは、それらの学問が対象とする世界(現象)も、我々のアプリオリな悟性概念が形成したものだからである。このようにして得られた判断が「アプリオリな総合判断」つまり拡張可能なアプリオリな認識である。つまり、世界の構成とアプリオリな綜合判断はともに同じ源泉であるカテゴリーもしくは超越論的統覚であるために、客観的世界と数学・力学は一致するのである。この超越論的統覚の総合という原理が、全ての認識の根底にある。 --- ### まとめメモ 感性の直観によって与えられるものはカオス的多様であって、これを理解可能な表象にするにはそれらが「総合」される。この「覚知の総合」は、「超越論的統覚」の働きにあるアプリオリな働きである。つまり、我々が知覚する対象は、我々にアプリオリに内在するカテゴリーによって規定されている想像力によって総合され創りだされたものである。言い換えれば、我々が経験する世界(現象)とアプリオリな綜合判断の源泉は同一のものであるため、世界と我々の判断は親和性を持ちまた一致する。 --- ## 注 有福孝岳ほか (編集)、『カント事典』、弘文堂、1997 1. 岩崎武雄 (著)、『カント『純粋理性批判』の研究 』、勁草書房、1965 1. ウォーバートン, N. (著)・船木亨(翻訳)、『入門 哲学の名著』、ナカニシヤ出版、2005 1. 黒崎政男 (著)、『カント『純粋理性批判』入門』、講談社、2000 1. シュヴェーグラー (著)・谷川徹三ほか(翻訳)、『西洋哲学史〈上〉』、岩波文庫、1995 1. バウムガルトナー, H. M. (著)・有福孝岳(翻訳)、『カント入門講義―『純粋理性批判』読解のために』、法政大学出版局、1994 1. 藤田昇吾 (著)、『カント哲学の特性』、晃洋書房、2004
First posted 2008/10/28
Last updated 2010/11/02
Last updated 2010/11/02
しかし、第二版においてそのような考えは排除され想像力は悟性の能力の一部として位置づけられている。岩崎氏(岩崎 p.143)によると、第一版に存在した不徹底、あいまいさの取り除こうとして全く新たな叙述を試みたのであろう、という。また、ハイデガーの解釈(黒崎 p.160)によると、カントが想像力という伝統的に下級とされる認識能力を頂点に掲げるのに抵抗を感じたからであり、また、これを認めるとカントの基本的立場である悟性と感性の二元論を放棄してそれらを統一する想像力一元論へと転化してしまうからであるからだという。そのため、「カントは超越論的想像力のさらなる根源的な解釈を遂行しなかった。反対に、カントはこの`知られざる根(Unbekannte Wurzel)`から退避したのである」(『カントと形而上学の問題』cited in 黒崎p143)。
カントの想像力における修正は、曖昧さの除去なのか退避なのかは解釈が分かれるところだが、カント学者の間では第一版を支持する人が多いという。だが、二つは本質的に異なる主張をしているわけでないとされる。