# カント「純粋理性批判」#4-2 誤謬推論・二律背反・理想
## 純粋理性の誤謬推理(Paralogismus)
最初に見るのは魂の理念を「誤謬推理」することから導き出される「実体としての魂」という超越論的仮象である。そして、カントはここで伝統的な合理的心理学を徹底的に批判する。合理的心理学は「我思う」という自我(`心(Seele)`を(1)非物質的な「実体」であると考え、そして、それは(2)「単純」で、(3)「自己同一的」で、また(4)空間の対象と「相互関係」をもつものであると捉えていた(またこれらの命題から「精神性」「人格性」「不滅性」といった属性が派生的に導かれる)。
しかし、カントはこれらの魂に関する命題は全て、(定言的理性推理から導き出された)魂の理念を誤謬推理したことによって導き出された不当な仮象である。すなわち、それは理念と客観との根本的な混同であり、理性が悟性の実体のカテゴリーを無制約的なものに適応しようとするとき、このような魂の客観的実体性という超越論的仮象が生じる。超越論的仮象とは、つまり、「我思う」という自我意識もしくは心の作用を推論することによって得られる魂の理念から、誤った推論により(越境し)実体と捉えることに端を発する。(主体(Subjekt)という語に含まれる二重なし三重の意義を混同したことが原因(`媒概念曖昧の誤謬推理spohisma figurae dictionis`[現表形式の論過])。)
またこれは、実体性の誤謬推理といわれ、実体カテゴリーを適用することによって生じる仮象であり、この結論をもとに、魂の単純性、同一性、観念性といった誤謬推理に派生する。これらにより「魂は同一である」「魂の不滅である」といった命題が導かれる。しかし、合理的心理学は「魂は実体である」という誤った命題を前提としていることが明白であるため、それらの命題も全て偽であるとする。
## 純粋理性の二律背反(Antinomien)
合理的宇宙論が関わるのは、合理的心理学が対象とする思惟主体の絶対的統一ではなく、現象系列の絶対的統一すなわち全体としての「世界」でありその根源である。世界に関する理念は四つのカテゴリー(量、質、関係、様相)から導き出され、そして(魂に関する誤謬推論では一方的な超越論的仮象が生じるだけであったが)それぞれにおいて矛盾を含み対立する超越論的仮象が引き出せる。これがアンチノミーであり、この対立は仮象をめぐる対立であるとし除去される。
### 世界に関する四つの理念
カテゴリーから導かれた、宇宙論的理念を理性が誤謬推論することによって、魂の実在性のときと同じように、超越論的仮象を見出す。そして、それは、同じ権利のもとにふたつの対立する仮象が見出される。このようにアンチノミーとは矛盾した命題が同等の権利のもとに成立するのである。
1.
- 定:世界は時間上はじめを持ち、空間的にも限界を持つ。
- 反:世界は始めを持たず、空間的に限界を持たない。
2.
- 定:世界における全ての複合された実体は単純な部分からなる。
- 反:世界のうちのいかなる複合的なものも単純な部分からなるのではない。一般に単純なものはない。
3.
- 定:世界の現象を律するのは自然法則的な因果性だけではない。自由の因果性もある。
- 反:自由は存在しない。世界における一切は自然法則によって生起する。
4.
- 定:世界にはその部部としてまたは原因として絶対に必然なものが存在する。
- 反:世界の中にも外にも、絶対に必然的なものが世界の原因として存在しない。
(「定」は定立の略、「反」は反定立の略)
最初の二つは数学的アンチノミーに分類され、また後半の二つは力学的アンチノミーに分類される(カントはそれぞれの定立、反定立を背理法を用いて証明するが、ここでは省略する)。また、それぞれのアンチノミーにおける定立と反定立の対立は、理性と悟性の対立であり、つまり、絶対的統一を認めようとする理性の立場と、それを認めず被制約者の領域を堅守する悟性の対立である(世界は悟性にとっては過大で、理性にとっては過小)。また定立側の命題は、`独断論(Dogmatismus)`の立場で我々の実践的関心と合致し(そして、宗教、道徳の土台となる)、逆に反定立は、`経験論(Empirismus)`の立場で、我々の理性の思弁的関心と合致する。
## カントの応答
これらのアンチノミーに対し、カントのは第一、第二の数学的アンチノミーは定立、反定立ともに誤りで、第三、第四の力学的アンチノミーにおいては定立、反定立ともに正しいとする。
### 数学的アンチノミーの応答
ある命題とその否定が選言的な形式をとるならば、その二つの命題が全ての可能性を覆っていなくてはならないが(例えば、全ての猫は動物であるか、動物ではないかのいずれかであり、動物ではない猫は考えることができない)、そうでない第三の可能性をもつ場合がある。例えば、「全ての物体は良い匂いをもつか、持たないかのいずれかである」といった命題は第三の可能性、すなわちある物体が匂いをまったく持たない場合が考えられ、したがって、先の二つの対立する命題はともに間違いであることがわかる。このように、「世界は有限であるか、世界は無限であるか、いずれかである」という二つの命題にも第三の可能性が存在する場合、この二つの命題はともに間違った命題と言わざるを得なくなる。そして、カントは第三の可能性はあり、上の両命題はともに偽であるという。それは、先に見たように、カントは世界を現象と物自体にわけ、我々が接触する世界は現象としての世界であると主張する。このように、世界は私にとって客観的に存在するわけではなく、また全体としての世界を与えられているわけでない。そのため、世界を全体として無限であるかそうでないか言及することはできないのである。
### 力学的アンチノミーの応答
第三第四のアンチノミーは力学的アンチノミーに分類されるが、カントはここで物自体に積極的な役割を担わせることによって、定立、反定立の双方が正しい命題であるということを示す。つまり、現象界(フェノメノン)においては理論的科学的認識のもと、双方のアンチノミーの反定立は成立するが、物自体の世界(可想界、英知界、ヌーメノン)においては実践的理性の立場から双方の定立を積極的に容認する。またこの第三アンチノミーによる実践的自由の容認がカントの実践的学において重要になってくる。
## 純粋理性の理想(Ideal)
魂、世界につづく第三の理念である神は、超越論的理想によってもたらされる。あらゆる認識は肯定的な概念によって与えられる。したがって、我々が事物の完全な認識を得ることができるためには、あらゆる肯定的概念によって示される実在性の総括、すなわち`実在性の総体(omnitudo realitatis)`という理念が考えられねばならないことになる(?)。この認識の根源である実在性の最高存在を`理想(Ideal)`と呼ぶ。しかし、この理想はあくまで理念(純粋悟性概念)であるのだが、我々は他の理念の場合と同じように誤謬推論し、これを客観的な実存であると考える。そしてそれを神と呼ぶようなる。しかしそれは、先に見たように魂の実在性や宇宙の全体性のように超越論的仮象である。
## 神の存在証明批判
その神の証明をカントは大まかに三つ(存在論的証明、神学的証明、宇宙論的証明)に分け、またカントはこれら伝統的な形而上学の試みを批判する。神学的証明と宇宙論的証明は結局、存在論的証明に帰結する。そこでカントは逆に存在論的証明から論駁する。
### 存在論的証明(Ontologische Beweis)
下記は、アンセルムスを原点とする典型的な存在論的証明の形である。それは:
1. 神はもっとも実在的な存在者である
- もっとも実在的な存在者は、存在する
- よって神は存在する
確かに、主語から引き出した述語によって作られて命題は同一率でありアプリオリな分析判断であるため、述語を否定することによって矛盾が生まれる(ソクラテスは人間である。という命題の述語である「人間である」を否定すると「ソクラテス」という主語と矛盾する)。しかし、これは主語と述語の論理的関係を示しているだけで、対象が存在するかどうかは無関係である。例えば、1万の角をもつ多角形を想像してみる、「1万角形は1万の角を持つ」という命題は真(分析判断によって決定)であり、また述語の否定は主語の否定を導く。しかし、だからといって1万角形が存在することを保証するわけではなく、存在を否定することは可能である(カントの例で言うと現実的な100ターレルの概念=可能的な100ターレルの概念。そして概念から存在を導くことはできない)。このように、神が存在という述語を含んでいたとしても、神の存在を否定することは可能である。
### 宇宙論的証明(Kosmologischer Beweis)
次に、宇宙論的証明を検証する。宇宙論的証明は下記のようなものになる:
1. もし、何かが存在するとすれば絶対的に必然的な存在者もまた存在しなければならない。
- 私は存在する。
- よって絶対的に必然的な存在者は存在する。
- 絶対的に必然的な存在者と考えうるのは実全的な存在者、すなわち神のみである。
- よって神は存在する。
カントによると宇宙論的証明は存在論的証明をベースにし、しかもそれに誤謬を加えたものであるという。まず、最初の前提であるが、これは因果律を前提としている。つまり、何かが存在する以上の原因があり、そして、原因をさかのぼってゆくと絶対的な存在者がいるというものである。しかし、因果関係は、第三アンチノミーにおいて、可想界においてもに成立するものであるとみた。しかし、ここでは、現象界に適用されている。すなわち、現象界の偶然的なものごとから、経験を超えて物自体界における必然的な原因を導いている。また後半の論証においても、「絶対的に必然的な存在者が実在的な存在者である」という命題は、存在論的証明と同じものである。
### 神学的証明(Physikotheologische Beweis)
そして、最後に神学的証明をみる。カントによるとこれは「最も古く最も明瞭であり、かつ常識に最もよく適合する」証明である。それは:
1. 世界のいたるところのに秩序がある
- もし、秩序をあたえる必然的な叡知的原因が存在し設計しないならば、世界はこうした秩序を持ちない
- よって、秩序を与える必然的な叡知的原因が存在し設計した
- この必然的な叡智的原理はもっとも実在的な存在でなければならない
- よって、もっとも実在的な存在は存在する
カントによると、この証明が示すものは質料を用いて世界を建設した`世界の建設者(Weltbaumeister)`に限り、世界の質料を想像した`世界の創造者(Weltschöpfer)`、すなわち神には至らない。なぜなら前提2の、「もし、秩序をあたえる必然的な叡知的原因が存在し設計しないならば、世界はこうした秩序を持ちない」という前提は人間の技術とのアナロジーによる推論であり、人間ができるのは質料を用いて何かを創造することで質料そのものを創造することはできないからだ(材木を使って家を建てることはできるが、材木そのものをつくることはできない)。人間の技術とのアナロジーでは、質料の創造を証明することは不可能である。このように世界の質料を偶然的なものと考え、偶然的なものから必然的な存在者の存在を推論するが、これはまさに宇宙論的証明の前半部分と同じ手順である。
このようにカントは伝統的形而上学(合理的心理学、世界論、神学)を非難する。しかし、カントはこのような形而上学を無意味なものとみたなしのではない。このような「魂の実在性」や「神の存在」は確かに学問的な対象としては拒否されるが、実践的な道徳において必要な観念であるという。そして、それは「実践理性批判」においてたどられる。
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## 参考文献
1.
岩崎武雄 (著)、『カント『純粋理性批判』の研究 』、勁草書房、1965
1.
熊野純彦 (著)、『カント 世界の限界を経験することは可能か』、NHK出版、2002
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シュヴェーグラー (著)・谷川徹三ほか(翻訳)、『西洋哲学史〈上〉』、岩波文庫、1995
1.
中島義道 (著)、『カントの読み方』、筑摩書房、2008
1.
バウムガルトナー, H. M. (著)・有福孝岳(翻訳)、『カント入門講義―『純粋理性批判』読解のために』、法政大学出版局、1994
1.
藤田昇吾 (著)、『カント哲学の特性』、晃洋書房、2004
First posted 2008/11/03
Last updated 2011/03/04