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# カント「判断力批判」#2 美と崇高の分析 ## 美の分析論 「美とは何か」という問いに対して、カントは四つの契機によって論及する。この契機は質・量・関係・様相の四つのカテゴリーから導かれたもの。 ### 第一契機:美の無関心性 我々の生命感情が高められたとき快を感じるが、この快には「関心」を伴う快と「無関心」な快とがある。関心を伴う快は、「快適なもの」または「善いもの」への関心から得られる快である(付属美)。つまり、関心を伴う快は、Xが我々に快をもたらす場合、我々はXを欲求して(「欲求能力」が働き)、その結果、Xに強い関心を抱く。しかし、「美しいものへの快」は純粋な無関心の快である。なぜなら、これは、Xそれ自体が快をもたらすのである。そして、この場合は無関心であるため欲求能力も一切働かずここにおいてはただ「判定能力」のみが働く。この美から得られる無関心の快こそ、自由で囚われない快である(自由美)。 ### 第二契機:構想力と悟性の自由な遊び 美は無関心なものであるため、「快適」や「善」といった人々にとって相対的な快をもたらすのではなく、主観的ではあるが普遍妥当性なものであるとカントは考えた。彼によると、多様な直観を統合する能力である`構想力/想像力(Einbildungskraft)`(\*1)が、「悟性」を呼び覚まして、そして、これと調和することによって私の内に美がもたらされる(特殊に事例が与えられそこから普遍的原理を見出す)。第一批判におけるアプリオリな総合判断においては、構想力は悟性に従属しており悟性の厳密な支配下において直観がもたらすカオス的多様を統合する。そして、この悟性が構想力の手綱を握りそれによる悟性と構想力の`強制的な一致`によって認識はもたらされる。しかし、この趣味判断においてはこの厳密な支配関係がなく、構想力は自由に働く。そして、`自由に働く構想力が悟性を呼び覚まし、かくて悟性が概念を用いずに構想力を合法的な遊びの内に置く(KU. 161)` のである。 また、この二つの認識能力が調和することによって趣味判断を促す所与の表象は概念として現れるのではない(趣味判断は無関心で概念に依存することはないのだから)。しかし、この二つの認識能力の調和はただ主観的な快・不快という感覚として表象される。このような悟性と構想力の調和によって得られる心の状態が`構想力と悟性の自由な遊び`であり、また、趣味判断の源泉となる快もこの心の状態である。そして、この`遊び`が趣味判断を規定するアプリオリな原理であり、普遍妥当性である。 ### 第三契機:目的なき合目的性 ある対象がある概念を原因としている場合その概念は目的と言われる。例えば、椅子は「座る」という概念を原因として成立しており、これが椅子の目的である。このように目的を有している対象(例えば、椅子)は、合目的性を有している(合目的的である)という。そして、この目的は必ずしも外的なものである必要はなく、その対象を成立させた意思においてある規則に従った表象が認められるならばそれは合目的的といわれうる。(また合目的性を有しているものはある種の美を備える。付属美・機能美。) そして、趣味判断は概念を前提としないが、認識諸力の調和(遊び)が我々の内に快という主観的感情の表象をもたらし、この快の感情によって美が判定されるのだった。このように、趣味判断において、対象は”外的・内的な概念という表象”を前提としているのではなく、無関心で、まったく主観的な”心の状態である快という表象”によって判断される。逆にもしそこに目的や概念があるとすると趣味判断は損なわれる。従って、趣味判断の対象となるものの合目的性は、(対象が持つ内的・外的な概念ではなく)その対象から与えられる快という心の状態の表象のみに求められるのである。これが`主観的合目的性`であり、そして、これは概念を前提としないため`目的なき合目的性`と呼ばれる。 ### 第四契機:共同感覚 カントによると、上記のような美的快は必然的であり、万人において普遍的であるという。しかし、趣味判断は認識判断のように、概念を前提としないため、これの必然性は規定された概念から導きだすことはできない。そこでカントは、認識判断において普遍的概念が万人において存在してそれに従い判断されるため必然性を有するように、趣味判断においては、万人が「共同感覚」を有しておりこれによって趣味判断の主観的必然性を説明する。 そして、共同感覚がどのようなものかということに対しては、後の演繹論で論究されることになる。それによれば、趣味判断を規定し普遍性を保証する「共同感覚」とは、すでにみた「悟性と構想力の自由な遊び」のことである。 ## 崇高の分析 カントは我々が美とは別に「崇高」という感情を認める。崇高は主に自然に対して抱かれる感情である。崇高も美と同じように、悟性と構想力の自由な遊びによってもたらされる快という表象によって判断される概念を前提としない目的なき合目的性である。しかし、美と崇高はいくつかの点で決定的に異なっている。まず、美はそれが制限された対象の形態の内に成立するが、崇高は逆に無制限でいてかつそこにおいて全体的な統一が見いだされる対象において見出される。これは、`「美しいものは、悟性の未規定的概念の表象として、崇高なものは理性の未規定的概念の表出としてみされる」(KU.206)`。それゆえ、美は感性の象徴であるが、崇高は知性の象徴であると言える。従って、美において「質」の表象が結び付けられるが、崇高においては「量」の表象と結び付けられる。 また、美は認識諸力の「遊び」であり快といった「生命を促進する感情」(積極的快)を伴うが、崇高はそれらの「まじめな営み」であり「生命力が一瞬間阻止され、ただちにそれに続いてそれだけ一層強く生命力が迸出することの感情」、すなわち、畏敬、感嘆といった感情(消極的快)と結びついている。そのため崇高は反合目的的ですらあるが、それが結果として我々のうちに`「より高い合目的性を含む理念と交渉するように刺激せられる」(KU.207)`のである。 崇高も美の場合と同じように、量・質・関係・様相という諸契機から考察されるが、ここにおいて特に重要なのは量である。そして、これは「大きさ」と「力」という区分を設けられ、前者は「数学的に崇高なもの」、後者は「力学的に崇高なもの」とされる。 ### 数学的な崇高 我々は「端的に大きいもの」に対して崇高の感情をいだく。端的に大きいものとは、何かと比較して大きいということではなく、一切の比較を超えて大きいということである。それはつまり「無限なもの」のことである。ある対象に無限性を見出すならば、そこに我々は崇高の念を感じる。しかし、これは対象の中に実際無限があるということではなく、理性の能力の無限の推論能力によって見出された無限であり、すなわち我々の心の内にある理性の声である。従って、ある対象から構想力(多様を統合する能力)と理性(制限のない推論能力)という対照的な能力が「遊ぶ」ことによって合目的性を形成する。このように生じる主観的な表象が数学的崇高である。 ### 力学的な崇高 力とは、「大きな障害に優越している能力」である。圧倒的な「威力」を持つ自然(例えば、雷雲、火山、暴風)は、崇高の感情をもたらす。そして、それらの威力が恐ろしければ恐ろしいほど威力に対する我々の崇高の念は強まる。しかし、ここにおいて、我々はこの威力から安全であるということが前提とされる。なぜなら、「恐ろしい」と感じるときに我々は崇高の感情を持つことはできず、ただそれが「恐るべきもの」と考えうるときにのみ崇高の感情を抱く。つまり、我々が安全なところから巨大な力を体験するとき、自然に対して矮小な自らの存在が「自然の外見的な全能力に張り合いうるとの勇気を我々に生じさせる」からである。我々は自らの内で自然という大きな障害対して優越しているのである。そして、力の定義にみるように、我々はその時、自然に対抗し優越する力を自らの内に見出し、自然そのものを見下しているのである。崇高という感情は決して恐怖から生じるのではなく、この自然に対する優越感から生じる。 --- ## 注- \*1. 構想力に関しては第一批判で詳しく考察される。
First posted 2010/11/11
Last updated 2010/11/11
Last updated 2010/11/11