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# 前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#5 語りえぬもの:自我 以下、W=ウィトゲンシュタイン 前回、論理空間の真理操作によって事態に対応する複合命題が構成されることを見た。これにより、事実から事態という可能性の領域へどのように立ち戻るかが判明したことになる。これが『論考』の根幹をなす議論であり、これが「語り得るもの」の領域を確定する。そして、ここから独我論を仲介して、自我、論理、倫理という「語りえぬもの」の領域の議論へ至る。これらは「語り得るもの」を支える根本条件であるために語りえぬが、しかし、指し示すことはできる超越論的な領域である。 - 6. 独我論:論理空間の基底で発見した「私」について。 - 7. 論理:論理空間における操作。これにより論理・数学の必然性が説明される。 - 8. 倫理:「生の世界」を支える超越論的な価値。 ## 6. 独我論(5.6 ) 事実に対応する命題から名を切り離す過程で言語が私秘性に覆われていることを発見する。そして、言語を「私の言語」とすることにより`独我論(solipsism)`へ至る。 ### 1. 私的言語論(言語は私の言語である) 今までの議論で棚上げしてきた問題がある。それは、「言語全体とはなにか」という問題である。名は命題関数を言語全体に照らし合わせることによって意味が解明され、それによって要素命題を構成することが可能になることを見た。そして、この要素命題により論理空間の「基体」が展開され真理操作が可能になることにも触れた。このように、これまでは、言語がまるで客観的で、私の言語と他人の言語が同一であるかのように語られてきた。しかし、この名の論理形式を解明し、論理のベースをなす言語全体とはいったいなんなのか。 筆者の理解では、私という個人は存在論的世界を経験(対象を直示的ostensivelyに定義)することによって、無数の事実の像(要素命題)を超越論的に写像し、それを経験として蓄積してゆく。そして、この蓄積した要素命題の総体が私が持つ言語全体である。つまり、言語とは私の経験の総体であり、直示的に定義された名の総体である。そして、名の解明は、私の経験である言語全体によってなされ、また、私の経験によって解明された名で要素命題を形成し、その要素命題で論理空間の基体を形成する(\*1)。従って、論理の根底には「私」があるのである。すなわち、言語とは「私の言語」であり、他人とは本質的に共有することのできない「私的言語」である(\*2)(そして、この言語の私秘性が4-2において要素命題の例を示すことができなかった理由である)。 ### 2. 私的言語から独我論へ(世界は私の世界である) このようにあらゆる思考の基底である言語が私秘性に覆われており、また、世界は私の言語でしか語ることができない。従って、世界は私秘性に覆われており、世界の限界は私の言語の限界ということになる(5.6)。Wにとって、語り得るものとは私の言語を基底とした論理空間に包括されている事柄に他ならず、また、私の言語の外に位置する存在は語りえない。なぜなら、名に存在論的指示対象を与えることができるのが私の言語であり、名の論理形式が一切不明で指示対象を持たなければその名は無意味なものであるからである。論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。 それゆえわれわは、論理の内側にいて、「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。 [...]このように、私の言語によって語られうる世界が私の世界において存在し、それを超える存在については言及することができない(しかし、存在しないということではない)(これは、これはパルメニデスの議論(\*3)を思い出す)。従って、私の言語が私にとってすべてであり、私が語りうるすべての存在を内包しそれ以外の存在は語りえない。この議論によると、世界とは私の世界であるという独我論の正当性を示している。
思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。(5.61)
[...] 世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。(5.62)### 3. 主体論/自我論(思考主体の否定) 上の議論をまとめると、実在世界の経験が、「私の言語」を形成し、「私の言語」が世界を理解可能にするため、私にとっての世界とは「私の世界」に限定されるというものであった。次に、この私を含む主体(subject)について論じる。命題において主体性は命題的態度で表される。命題的態度(propositional attitudes)とは、「信じる」「語る」「考える」などの命題に対する信念を表現することである。Wはすべての命題は要素命題の論理定項による真理操作によって得ることができるが、この命題的態度を含む信念命題(例えばA believes that P) は、そのように構成されない。なぜなら、命題Pの真偽はこの命題全体の真偽に関係しないからである。例えば、「太郎は、ソクラテスは鳥であると信じる」という命題の真偽は、実際ソクラテスが鳥かどうかは関係ない。このように信念命題は、記述命題とは異なり、対象と事実の対応関係では説明することができない。 この問題に応答する際、Wは主体そのものの存在を否定する。 主体は思考主体と動作主体の二つに分けられここで否定されるのは、命題的態度を担う思考主体である(cf. [12, p.202])。Wはこの論理的態度の問題に対し、簡潔に次のように言う:
しかし、明らかに、「Aはpを信じている」「Aはpと考える」「Aはpと語る」は、元をたどれば、「「p」はpと語る」という形式となる。そしてここで問題になるのは、事実と対象の対応関係ではなく、対象と対象の対応を通して与えられる事実相互の対応関係なのである。(5.542)「AはPを信じる」などの信念命題を理解するためにまず、Pを命題Pとそれが志向する事実Pであると把握した上で、事実Pを現実の事実の像である現実Pと事態の像である事態P(事態の像もまた事実であった)に分ける。 そして、「AはPと信じる」という信念命題において、Aは命題Pによって、現実Pではなく、事態Pを志向する(自らのフィクションを志向する)。 そして、現実Pは関係なく、あくまで、この信念命題における命題Pとそれが志向する事態Pに像関係が成立しているかが命題的態度(信じる」)を成立させる。 具体的に見ると、「太郎はソクラテスは鳥であると信じる」という信念命題における、「信じる」という命題的態度を成立させているのは、「ソクラテスは鳥である」という命題と、この命題が志向する事態の像に他ならない。 このように、命題的態度を命題と事態の像との関係に還元する。 そうすると、信念命題において、思考の主体(この場合「太郎」)もまた、事態の像と命題の連関に還元され対象としての思考主体は否定される(「『P』はPと語る」は像と命題の関係を表す)(\*4)。 「もとの未分析の命題において直示的に指示されていた人物「A」はヒューム流に思考内容の流れに「還元」されることになろう。」[6, p.45] ### 4. 厳密な独我論により主体としての「私」を否定(私は私の世界である) 存在論的経験は私の論理空間の基底であり、そのため、この経験を通してしか私は世界を眺めることができない。 そういった意味で「世界とは私の世界」であった。 加えて、上記で見たように、「意志する私」という主体(形而上学的自我)は「私の世界」という思考の流れに還元される。 これにより、Wは下記のように言う。
私は私の世界である。(5.63) 主体は世界に属されない。それは世界の限界である。(5.632)「私の世界」を超越論的に統一する同一の「主体」(もしくは、形而上学的主体(5.633)、魂(5.5421)、超越論的自我)は否定された。そして、この厳密な独我論によって残るのは、「私の世界」のみである。そのため、Wは「私」は「私の世界」と同一であり、「私の世界」は「世界の限界」を画定すると結論する。なぜなら、「私の世界」だけが「有」であり、それ以外は「無」である。語ることができるのは有ることであり、無は語りえない。
世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。 君は、これは眼と視野の関係と同じ事情だと言う。だが、君は現実に眼を見ることはない。 そして、視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されない。(5.633)そして、「私」(私の世界)は常に存在論的世界を経験するため、「私」は常に拡大もしくは縮小している。従って、「私」は常に流動しているといわなければならない。この議論はまさにヒュームの「知覚の束」を思わせる。そして、この議論もヒュームの議論と同じように人格の同一性という問題をもつが、これは身体の同一性[6, p.45]などによって補足可能である(これ以上は同一性という別の哲学問題になる)。 ### 5. 厳密な独我論から実在論へ このように、世界とは「私の世界」であり、そして、「私」という同一の主体性は否定された。加えて、「私」は「私の言語」や、「私の世界」といった所有格でしか現れず、「私の世界」は、実在論的経験に対応する「現実の世界」である。すなわち、徹底した独我論は実在論と重なる。つまり、世界とは私自身であるが、その「私」は同一の主体性をもったものではなく実在世界そのものであるのだ(\*5)。
ここにおいて、独我論を徹底すると、純粋な実在論と一致することが見て取られる。独我論の自我は広がりを欠いた点にまで縮退し、自我に対応する実在が残される。(5.64)しかし、これは独我論と実在論が重なる、もしくは一致するだけで、独我論が純粋な実在論になるわけではない [8, p.13]。独我論を脱却するのは、私的言語と主体非在を批判する後期の哲学においてなされる。 --- ## 注
- \*1. なぜ言語が私秘的かについては解釈が分かれる。「あの」「この」という私のプライベートな意思作用による対象と名の関連付けによって対象は意味を獲得し、そのため、名は私秘的であるという解釈もあるが([5] in [12, p.185]、[7, p.167])、ここでは論理形式を解明するための言語全体が私個人の存在論的経験[12, p.187]に依存しているためすでに私秘性に覆われていると考える。
- \*2. この独我論は後期Wとは反対の立場であり、また、私的言語論も『考察』で批判される(私的言語批判)。
- \*3. 無はまったく在らぬため思惟不可能である。なぜならば、思惟するということは現実の存在に即し、依存しているからであり、思惟と存在は切り離すことができないからである(「思惟することと在ることは同じ」)。存在は自らと同一であり、ゆえに必然的に存在する。また存在の外には何もあることはない。存在は自らによって規定されるのであり、そのためそれは一なるものであり、全体であり、自己において充足した完全なものである。
- \*4. そして、「太郎はソクラテスは鳥であると信じる」における「太郎」は「ソクラテスは鳥である」と思考する主体ではなく、「ソクラテスは鳥である」と発話する動作主体に他ならないことが判明する。加えて、信念命題の真偽は。現実との比較によってもたらされるのではなく、行動主体の使用用途によって決定される。そのため、使用以前に真偽は決定している。[12, p.209]。
- \*5. この独我論はショーペンハウアーから強く影響を受けているという[6, p.47]。
First posted 2009/01/28
Last updated 2009/04/04
Last updated 2009/04/04